旅あるいは巡礼、その計画と記録

プライベートなメモです

2022年越後妻有大地の芸術祭の旅

 旅日記である。タイトルは「2022年越後妻有大地の芸術祭の旅行」とした。すこし仰々しい、或いは素気ないような感じもするけれど、ひと目で、何時何処へ行ったのかが分かるという意味では、このような記録的な文章にはそぐっているのではないだろうか。

 などと気取って書き出してみたが、隠すまでもなくこのタイトルは、映画「2001年宇宙の旅」からの引用で、それはただこの映画が私の生涯ベスト1ムービーであるから、という単純な理由からでしかない。

 

 簡単に今回の旅行の経緯を記述しておくと、この2022年に至る2年間は世界的なコロナウィルスの流行で、海外はおろか国内の旅行も厳しく制限されていた。そのようなことは、この文章を書いている現時点ではわざわざ書くまでもないようなことなのだが、例えば数年後、コロナ禍という状況が過去のものになった時、いま現在のような時期は、変化のグラデーションの中で意外に忘れ去られてしまいがちなのかもしれないと考えて敢えてクドクドと記録しておくことにした。

 コロナ禍、パンデミックなどと呼ばれているこの状況が将来どのように振り返られるのかは興味深いところだけれども、今現在(2022年11月)においては、まだ完全には収束してはいない。ただし、最近流行の兆しを見せている第8派もこれまでのように1〜2ヶ月で収束し、それ以降来年中にはほぼ収束した状態、またはインフルエンザ並の抑制された状態に落ち着くだろうというのが一般的な観測のようである。私もだいたいそんな感じかなと思っている。

 そんななか、徐々に行動制限も緩み始め、そろそろ久しぶりに旅行に行きたいなと考え始めたのが、今年の夏、第7派も収束の兆しが見え始めた8月になるかならないかくらいの頃だったと記憶している。

 コロナ前、最後に旅行したのが2018年佐渡ヶ島の銀河芸術祭、その前は2017年の札幌国際芸術祭だった。決めたわけでもないのだが芸術祭巡りが続いていたのは、多分それくらいしか自分が旅行する理由が思いつかないからなのだろう。今回もなにかよい旅のテーマはないかとインターネットでいろいろ検索して行くうち、引掛ったのが「越後妻有大地の芸術祭」だった。

 

 新潟県で行われるこの芸術祭もコロナの影響で1年延期となったそうで、今回で8回目。3年に1度のトリエンナーレ形式なので3x8+1でちょうど25周年ということになるらしい。これまで名前は聞いていたもののきっかけというものがなく、実際に行こうと考えたことはなかった。ところが調べてみると、思っていたよりもずっとアクセスしやすいということがわかった。これはうれしい発見で、これまでに行った芸術祭、横浜、瀬戸内、札幌、佐渡、のうち横浜の次に近い。しかも程よく地域性も味わえそうな場所である(横浜だと普段、美術館へ行くのと同じだから)。ホームページを見てみると何人か聞き覚えのある有名なアーティストの作品の展示もあるようだった。佐渡へ足を伸ばすか少し迷ったが、今回は越後に集中することにして、私は旅の日程を考え始めた。

 なぜ佐渡へ行こうか迷ったのかというと、この数年来私が旅行先を決める時に一つの裏テーマのようなものがあって、それが『継続的に何度も通える場所の発見』というものだった。四年前に佐渡へ行った際に、その星空の見事さが印象的だったのと、古典芸能が盛んなこと、またかなり深い自然を味わえそうであるということが分かったので、佐渡を『継続的に何度も通える場所』リストに加えても良いかなと考えていたのだ。

 越後とは場所も近く、移動日を一日設ければ足を伸ばせない距離ではなかった。ただ予算と日程の都合から今回の旅行を2泊3日と設定していたので、無理に欲張らないほうが良いと考え断念することにした。とはいえ訪れたい場所があるということ、自分の中にそんな場所が増えてゆくことはなかなかよいものだ。どうしようかな。そんなふうに迷いながら改めてそんなことを考えた。旅行の計画を建てる過程は、実際の旅行以上に楽しみの多いものだというのは私の昔からの持論だ。選択肢が多いほど、その楽しみも増えるというものではないだろうか。

 

 ともかく、今回は越後妻有に集中することにして、細かい日程を考えることにした。公式ガイドブックも取り寄せ、細かく見てゆくうちにわかってきたのは、芸術祭の開催されているエリアがかなり広いということだった。

 これまで幾つかの芸術祭を巡った経験から、あれもこれも観ようと予定を詰め込みすぎない方がよいということはわかっていたが、電車やバスの時刻表まで見てルートを考えると、それでも思っていたものの半分位しか回れそうになかった。もちろん、実際にはさらにその6〜7割位になってしまった訳だが、まあそれこそが旅行の醍醐味だと思っている。むしろ旅行とはそのようでなくてはならないと思うし、またそうでない旅行などありえないと言い切ってもよいかもしれない。

 ここで私は旅と言いたいところを(そのほうが語感もよいので)敢えて旅行という言葉を使っているが、旅はその日程などをあまり綿密に考えないで行くコトと、一応ここでは定義することにしておきたい。旅と旅行の違いを考え出すと、そこにはもっとなにか詩的で情緒的で個人的な記憶なんかも入り混じった意見もあるとおもうのだが、ここではまあ大体そんな感じというところで勘弁しておいてほしい。私が言いたいのは、旅であるならなおのこと、日程をある程度組んだ旅行でさえ、あまり、いや殆ど予定通りに行かないというところに、旅や旅行の本質があるような気がするということだ。

 そもそも予定通りに行かない、いや予定することが不可能ですらあるその最たるものが天候ではないだろうか。それはなにも旅行に限ったことではなく、天候は私たちの日常生活や社会生活、経済活動や戦争に至るあらゆる人の営みにおいて、常に密接な関わりを持っている。少し大げさに聞こえるかもしれないが、それはあたかも思い通りに行かない人生のメタファーそのものなのである。

 もちろん、今回の旅行もそのような天候に大きく影響を受けることになった。簡単に言えば天気が悪かったということだが、こればっかりは予定を事前に組む必要のある現代日本社会で暮らす殆どの人にとって、宿命と呼ぶことしか出来ないコトではないだろうか。

 そもそも旅行に出掛けたのは10月初旬で、まだ台風シーズンも終わりきっていない時期だった。実際ちょうど一週間ほど前に現地は台風に見舞われたばかりで、場合によっては交通機関などに影響が出ていてもおかしくはないような状況だった。幸いそういうことはなかったが、終始曇りがちでときおり小雨などもぱらつくような天気が続き、結局スッキリと晴れることは一度もなかった。まあ結構な山あいで天気も変わりやすいような場所だったということもあると思う。

 10月5日午後1時過ぎにJR中央線三鷹駅から出発し、上越新幹線越後湯沢駅からローカル線のほくほく線へ乗り換え、まつだい駅に着いたのが午後5時過ぎ。そこから路線バスで30分くらい、大型バスが通るには少し狭いくらいの道路を登り、初日の宿泊先である松之山温泉に着いたのは7時前だったと思う。宿泊先の「みよしや」は素泊まりの宿で、着いてすぐに近くの温泉に行き蕎麦屋、飲み屋と3軒の飲食店をハシゴした。

 長いコロナの自粛の影響なのか、そもそもが平日ということもありそれほど賑わう時期でもないのか、温泉街は人影も少なく、飲食店もお世辞にも活気があるようには見えなかった。私は旅行先で入る飲み屋で、店の人や地元の人からいろいろな話を聞いたりすることを旅行の楽しみのひとつにしているのだが、この日はそのようなこともなく、普段より少し多めにチューハイをお代わりするに留まった。

 そんな松之山温泉で、最も印象に残ったのが温泉の泉質だった。なんでも数万年前までその場所は海だったそうで、後に地中に封じ込められた海水がマグマに温められて吹き出しているという、すこし珍しいタイプの温泉なのだそうだ。なめてみると確かにお湯は海水のような塩味だった。

 しかしそのように何万年も前に地底に封じ込められた海水が未だに吹き出し続けているというのは、なんとも不思議な話ではないだろうか。ひょっとするとどこかで循環しているのかもしれないが、普通に考えればいくらなんでも枯れてしまいそうなものだと思うのだ。しかしお湯はもったいないくらいに湧き続け、殆ど人気のない湯船を常に満たし続けていた。多分いまこの瞬間も(掃除時間を覗いて)あの湯船は並々とお湯を湛え続けているに違いない。

 翌朝は朝食を前日に駅で買っておいたバナナで済ませ、朝の通勤時間帯に1本だけある路線バスに乗り昨夜来たルートを逆に下った。朝の通勤時間帯といっても乗客は私の他に、おばあさんが1人と、私と同じような芸術祭巡りらしい若い女性が1人きりだった。私は事前に決めたルートに従い途中のバス停で降り、次のバスが来るまでの間に最初の目的地である「森の学校キョロロ」という博物館のような施設を目指した。ここからが本格的な芸術祭巡りの始まりである。朝8時過ぎくらいの山道を30分くらい歩く。霧が出ていて見晴らしは良くなかったが、私は霧が好きなので問題なかった。霧の中にいるとまるで自分が異次元の世界に彷徨っているような気分になる。霧というのはなにかそういう私たちの感覚を異世界へ誘う触媒のような力があるように思うのだ。

 その日の霧はそこまでではなかったものの、それでも東京で暮らしているとあまり味わうことのできない感覚があった。空は曇っていたが心配したほど寒くもなく、「森の学校キョロロ」に辿り着くまでにも、クリスチャン・ボルタンスキー「森の精」など、幾つかのオブジェ作品を観ることができた。「森の学校キョロロ」を最初の目的地に選んだのは、その受付が、この芸術祭のパスポートの交換場所のひとつに指定されていたからだ。入り口に到着したときはまだ施設の開場前だったので、その側にある、作品の展示とはべつにガイド本にも紹介されていた「美人林」という場所に足を伸ばした。日本3大ブナ林のひとつだそうである。そこはいってみればただの林なのだが、美人というだけのことはあり、その真すぐ生えたブナの林は、ついついどこまでも入っていって仕舞いそうになるような不思議な魅力のある空間だった。うっかり奥に迷い込むと戻って来れなくなるかもしれない。そんなちょっと怖くなるような怪しい雰囲気があって、ボルタンスキーには悪いが、人の手によるオブジェとは存在感のようなものが全く違っていた。それは明らかに生きて呼吸をしていて、耳を澄ますとブナの話し声が聞こえてきそうな気配さえ漂わせていた。

 そのまま森に迷い混んで行きたくなる誘惑から逃げるように、開演時間直後に最初の目的地「森の学校キョロロ」に入館してパスポートを購入した。この施設はいろいろな生き物の標本が展示されていて、子どもたちが生物の勉強を楽しめるように考えられた施設ということだった。あまり期待はしていなかったのだが、壁一面に並べられた地元の学者のコレクションだという昆虫の標本は、ずっと眺めていても見飽きることの無いような見事なものだった。また、博物館の建物には登ることのできるアトラクション的な塔のオブジェが併設されており、現代アートとしても、子どもたちが楽しむアトラクションとしても良くできているなと感心してしまった。

 そこからまたバス停まで戻り、まつだい駅に着いたのはまだ午前10時過ぎだったと思う。まつだい駅のそばにはメイン会場のひとつ「まつだい農舞台」があり、ここでメインに展示されていたのがイリヤ&エミリヤ・カバコフという旧ソ連出身のアーティストの作品で、屋外にもいくつかのオブジェが展示されていた。私としてはまったくノーマークの作家だったのだが、結果的にはこの作家を知れたのが今回の旅行の最大の収穫となった。

 屋外の大掛かりなオブジェの他には農舞台内に専用の展示エリアがあり、この場所とイリヤ&エミリヤ・カバコフとの繋がりの深さも伝わってきた。ただ私がもっとも惹かれたのは、その作品よりもまずはその経歴だった。

 イリヤ&エミリヤ・カバコフは旧ソ連時代に仲間たちと発表の宛のない作品を作り続け、お互いで楽しんでいたのだという。私がその時もっとも心を動かされたのは、カバコフ夫婦がそのように純粋に自分たちのために創作を続けていたという事実だ。社会的な成功のようなものとは一切無縁の創作は、いってみれば自己満足の趣味となんの違いもない、というかそれ以外のなにものでもないものだったろう。しかしこの夫婦の場合、おそらくは幾つかの偶然や幸運(或いは不幸)の末、評価を得たアーティストとして、遂にはその作品が私たちの目に触れるところにまで辿り着いたのだ。だがその根底にあるのは発表の宛のない創作であり、有名になった彼らの作品の背後に、私は膨大な、発表の宛のない創作を続けるアーティストの存在を想像することができた。そしてなにより、その膨大な星の数ほどいるアーティストの群の中に私も含まれているという事実に私は興奮した。いささか虫の良いような解釈ともおもえるのだが、イリヤ&エミリヤ・カバコフの作品から、私はなにか創作するコトにたいする純粋な欲求のようなものを強く感じ、どこか励まされたような、とても肯定的な気持ちになることができたのだ。展示に併設されていた図書コーナーには、スタニスワム・レムの有名なSF小説惑星ソラリス」を翻訳したロシア文学者の沼野充義が纏めた「イリヤ・カバコフの芸術」という本が展示されていて、いつか読もうと思って念の為表紙を写真に撮って記録しておいた。(そう記憶していたのだが、実際には写真に撮影したのは別の本だった。こういう旅行の記憶違いというのは、それはそれである意味いい思い出となるような気がする)<写真・本><写真・松代>

 まつだい駅のすぐ側に松代城山という山があり、その頂上に建てられた城の内部に作品展示がされているということで、農舞台を出てからその山に登った。まあそれほどたいそうな山ではなかったし、途中には演奏できるオブジェ、読めるオブジェなどの展示物も多かったので退屈することはなかった。しかも登りと降りで別ルートを選ぶことができ、そのあたりもしっかり考えられていてその山全体がなんというか一つの展示会場となっていてその点も面白かった。

 それからほくほく線十日町へ向かった。十日町は二日目の宿泊地だ。電車で20分位で、松代からそれほど離れた場所ではない。ランチタイムは過ぎてしまっていたのだが、そもそも飲食店があまり見当たらず、ようやく開いていた蕎麦屋を見つけてもり蕎麦を食べた。これは馬鹿にしている訳ではないのだが、このような地方の街に来ると、食事の出来る店を捜すのにとても苦労することがある。おそらく車社会で、駅前というのが都会ほど人の往来するメインの場所ではないのだろう。それでも夜になると営業してそうな店はちらほらあったので、その日の晩の予定をいろいろと思案しながら、ひとまず荷物を置いて身軽になるために予約しておいたホテル「むかでや」に向かった。

 ホテル「むかでや」は駅から徒歩7分といったところだろうか。ロビーの大画面テレビで韓国ドラマを観ていた年配の女性が一人で切り盛りしているのか?と思わせるくらい人気のないひっそりとしたホテルだった。朝食付きで7000円のところを越後妻有芸術祭のパスポートを見せれば半額になるという破格の安さだった。6階の窓から見える風景は通勤列車の窓から見えるような風景とだいたい同じだった。もちろんそれが不満だったわけではない。実は昔、ニューヨークの安ホテルに泊まったときにも似たような印象を感じたことがある。それは多分、特別ではないということは日本も外国も違いはないということなのかもしれない。

 荷物を置いて身軽になり、夜までにはまだ時間があった。電車で二駅の場所に野外の大きな展示があったので、そこまで電車で行くかレンタルサイクルを借りるか、駅の観光案内所で迷っているうちにまた雲行きが怪しくなって来たので、移動はあきらめて案内所の人に教えてもらったちょっと風変わりな温泉施設へ行くことにした。その温泉はこともあろうに美術館の中にあるのだ。その美術館「越後妻有里山現代美術館MonET」は翌日の午前中に行くつもりの場所だったが中に温泉があることは知らなかった。ちょうどよかったので、閉館時間ギリギリだったが少し急ぎ足で観て回った。作品にはかなり興味深いものもあったが、比較的展示は小規模で私はむしろその美術館の建物にとても惹きつけられた。外から見ると高い壁に囲まれた刑務所のようにも見えるが、壁の中は2階建ての回廊になっていて、その中庭に当たる部分は大きな池になっていた。その壁の3辺が美術館で残りの1辺が温泉施設になっているのだ。

 考えてみると瀬戸内の直島(だったとおもう)にも画家の大竹伸朗がデザインした銭湯があったが、アートと風呂というのはひょっとするとどこかで繋がっているのかもしれない。

 

 温泉はもちろん外部からは見えないようにはなっているがガラス張りで、大きな湯船とサウナと水風呂があり、水風呂から外に出ることもできたが露天風呂はなかった。入っていたのは別に現代アートなんてまるで興味ない、といったような近所の人々ばかりのようだったが、それはそれで無理なく共生してる感じが心地よかった。

 風呂上がりに駅前のもつ焼き屋に入ったのだが、勇気を出してその少し前に通った入りにくそうな焼き鳥屋にしておけばよかったかなと後悔しつつも、さすがに店を出て飲み直す元気もなく、歳を取ったんだなあとしみじみと、ホッピーの中をいつものように3杯お代わりしたのだった。

 翌朝は、やっぱり前日受付をしてくれた年配の女性が給仕してくれて、いわゆる旅館の朝ごはん、ご飯が小さなお櫃に入っていて、自分でおかわりするようになっていたり、味のりが専用の角皿に載っていたりするような、を食べた。この日の移動は結構大変だったので、朝はしっかり食べておこうと思ったのと、やはり外で朝食を食べれるところを捜すのはきっと大変だろうと思って朝食付きにしてもらったのだが、これは我ながら大正解だったと思っている。なにしろ、その日の移動は本当に、考えていたより5倍くらい大変だったのだ。

 十日町駅からJR飯山線に2駅乗り下條駅で下車した。この駅を起点にして午前中に東西に徒歩移動で大きな展示を2つ観る予定にしていた。下條駅の前には藁葺き屋の塔のようなオブジェ。方向を確かめあるき始めるとすぐに案内板があった。目的地の「うぶすなの家」まで8キロだったか?少し躊躇したがまだ時間はある。そのままトボトボ歩いているうちにようやく比較的近場にあるとおもっていた公園内に設置されたオブジェに辿り着いた。ドミニク・ペロー「バタフライパビリオン」伊藤嘉郎「小さな家」ほか。川べりにある公園の地形を活かしたオブジェで、とくに小さな洞穴のような場所にあるベンチに座って川の向こう岸に生えている一本の木を眺める仕掛けになっている「小さな家」が印象的だった。しかし地図を確認すると、とてもじゃないが当初目指していた「うぶすなの家」に行って帰ってくるには午前中かかっても無理かもしれないということに気が付き、一度そこから下條駅まで引き返すことにした。

 また細かい雨が降り始めていたのだが、下條駅まで戻り私は一度ルートを再確認してみることにした。予定ではこのあと、実は今回絶対に外したくなかったジェームス・タレル「光の家」まで信濃川を渡って移動し、その後路線バスを乗り継いで越後湯沢へ戻りがてら清津峡温泉のマ・ヤンソン「Tunnel of Light」と結構な距離の移動を考えていた。「光の家」までは「うぶすなの家」程ではないがかなりの距離を歩くことになるが、バスを使うには一度十日町まで戻る必要があった。いまから考えればそれが正解だったのだが、最初の目的を変更したせいで少し時間に余裕があったので、私は下條駅から徒歩で「光の家」を目指して歩き始めてしまったのだった。2時間近くは歩いたと思う。途中で帰りに乗る予定のバス停をチェックし、そのままバスに乗って引き返そうかとも考えたが、そこまできて諦めるのもバカバカしいのでなんとか歩き切った。ところどころにオブジェが配置されていたので少しは気が紛れたが、特に前半の行程は多分人が歩くことを想定していないような道で、何台ものトラックに追い抜かれた。また馬鹿が歩いてるくらいに思われていたのだろう。

 しかも、この「光の家」がまた山の上にあるのだ。ちょっとしたゴルフコースがあって、研修所のような施設のあるようなリゾート施設というのだろうか?そんな場所からさらに数分登ったところにある。「光の家」も宿泊施設として利用できるアート作品なので、チェックインからチェックアウトまでの時間帯を一般客に公開しているというスタイルの展示だった。この作品にこだわったのは、瀬戸内の直島にある美術館で観たジェームス・タレルの作品が強烈に印象に残っていたからだった。光と空間を使うのがこの人の作品の特徴で、この人の作品は現地に行って体験するしか無いのである。

 「光の家」に至る山道の中腹に、ベンチのような形式のオブジェがあった。そこに座って眺める光景が作品となるのである。朝からずっと歩きどうしで、そこに座って水を飲んでいると、2組ほどのグループに追い抜かれた。多分少し手前にあった駐車場から登ってきたのだろう、私の山登りのような格好とは次元の違う服装、都市的な生活者がその延長で余暇を楽しむ風情を彼らは漂わせていた。私は間違っていたのかもしれない。それがそのときの私の偽らざる心情だった。車の運転が苦手で公共機関の移動も使えないのであればせめてタクシーにでも乗ればよかったのだ。人が歩くべきでない道を歩き、そのような徒歩での移動を想定されていない場所を歩いて移動するのは馬鹿のすることだった。そして私は馬鹿だったのである。

 実はうすうすそのことには気が付いていたのだが、一旦歩き始めた以上途中で引き返す事もできず、都合よくタクシーの空車が通るはずもなく、作品を観ることも諦めきれずにここまで来てしまったのだ。歩くことは嫌いではないし、人の活動の基本であるというのが私の思想でありその想いに変わりはない。しかし現代日本社会のインフラは、その中はともかく、その間を人が歩いて移動するようには設計されていない。それは田舎であるほどそうなのかもしれなかった。だから彼らにとって車は生活必需品なのだ。田舎道は歩行者に冷たい。それは今回私の学んだ教訓の一つとなった。

 そんな事があったからかもしれないが、それ程苦労したわりにタレルの作品はあまり大したこと無いように感じられた。泊まるとまた違うのかもしれないが、それ程の価値があるとも思えなかった。疲れてしまって作品を味わう気力を無くしてしまっていたのかもしれない。馬鹿を見るという言葉そのままに、私は「光の宿」を後にした。

 もっとも、ジェームス・タレルのために一言付け加えるならば、その日は雨がちで、本来開かれるべき天井が閉じたままという悪条件のなかでの鑑賞だったのだ。外光と室内光の対比を利用したタレルの空間表現をまるで味わうことができなかったのだから、私がそのような感想を抱いたというのも仕方のない事だったのかもしれない。

 帰り道というのは行きの半分くらいに感じられるのは、きっと心理的な効果なのだろうが、下りだったこともすこしは関係していたようにも思う。往時に確認しておいたバス停に戻ると30分程時間が合ったので、すぐ側にあった食料品店でカップめんを買って昼食にした。ここからはローカルバスを3回乗り換えての大移動となる。今回の旅行の中でもっとも緻密に路線バスの時刻表を調べ上げて考えたルートだった。移動時間も乗り換えを含めて2時間になる。新幹線なら東京京都間を移動できる時間だ。

 簡単にルートを記しておくと次のようになる。まずは十日町に戻り、そこからさらに西に向かうバスに乗り継ぐ。JRだと2駅分くらい移動し、今度は南下するバスに乗り継ぐ。そのまま終点までゆけば出発点の越後湯沢駅なのだが、清津渓谷で途中下車して2時間の乗り継ぎの間にマ・ヤンソン/MADアーキテツク「Tunnel of Light」を鑑賞し、その日の最終バスでJR越後湯沢駅に戻る。この「Tunnel of Light」は坑道のようなトンネルを歩く作品で往復40分位かかるという情報だったので、結構ギリギリの移動だったが、結果としてこの行程は非常に上手く行った。帰りのバスまで30分程の余裕があったので、閉店間際のカフェに立ち寄り地ビールを飲んだのだが、おまけに売れ残りのおにぎりを貰って、今回殆ど成果のなかった地元の人とのささやかな交流めいた気分も、そにおにぎりで満たすことが出来た。もうあとは新幹線に乗って帰るだけなのだが、その前に「Tunnel of Light」のことを少し。

 この「Tunnel of Light」という作品はどうも私の見たところ(多分誰が見てもそうだとおもうが)もともとあった観光地の呼び物を利用して、少し乱暴な言い方をすれば、でっち上げたような作品であった。といっても消して批判している訳ではなくとても楽しめたのだが、それはアート作品としてより寧ろもともとあった呼び物としての見どころに寄るところが大きかったようにも思う。トンネルは、ひょっとすると昔は何かの坑道などを利用したものかもしれないが、どこかへアクセスするためのものではなく、途中にと最期の終点部分に設けられた展望口から渓谷の断層や急流を眺める仕掛けになっていた。その所々に、光や音を使った展示が設置されているのだが、これは「美人林」でも感じたことだが自然の造形の前には、人工の造形は霞んでしまって殆ど意味をなしていないように私には思われたのだ。とはいえ、この「Tunnel of Light」という作品がなければ私はこの渓谷に来ることはなかっただろう。そう考えると、そのやや商業生を帯びた芸術という人の営みと古い観光資源=殆ど自然そのままとを見事に結びつけ甦らせている、それが現代アート的な面白みと思えなくもなかった。「越後妻有大地の芸術祭」は総じてそのように、町おこしとアートとをとても上手に結びつけ観光地化に成功しているように私にはおもわれた。ただし夜の街。それは飲み屋のことなのだが、そういう成果が今回は乏しかったので、それは次回の課題にしておく。